~1961
1939 |
9月10日 |
のちにジョンの最初の妻となるシンシア・パウエル誕生。 |
1940 |
6月23日 |
スチュアート・サトクリフがスコットランドのエジンバラに生まれる。 |
7月7日 |
リチャード・スターキーがリヴァプールのマドリン・ストリート9番地(ディングル地区)に生まれる。 | |
10月9日 |
リバプールのオックスフォード産科医院でアルフレッド・レノンとジュリア・レノンとの間にジョン・ウインストン・レノンが生まれる。 | |
9月24日 |
リンダ・イーストマン誕生。(ニューヨーク) | |
1942 |
6月18日 |
綿のセールスマンであるジェームズ・マッカートニーとメアリー・パトリシア・マッカートニーとの間にジェームズ・ポール・マッカートニーがリヴァプールのウォールトン病院で生まれる。 |
1943 |
2月25日 |
午後11時24分、リヴァプールで店員をしていたルイーズ・ハリスンと10年間リヴァプール・ホワイト・スター・ライン号の船員をした後1937年からバスの運転手をしていたハロルド・ハーグリーブス・ハリスンとの間にジョージ・ハリスンが生まれる。4人兄弟の末っ子。 |
1956 |
10月31日 |
ポールの母、メアリー・パトリシア・マッカートニー、乳がんのため死去。47歳。 |
1957 |
3月31日 |
ジョンがクォリーメンを結成。 |
6月9日 |
クオリー・メン キャロル・リービス主催のアマチュア・バンド・コンテストに出場し落選 クオリー・メンとして最初のステージ。 | |
7月6日 |
ジョンとポールの出会いの日。この日ウールトンのセント・ピーターズ教会で祭りがおこなわれ、その際にジョン率いるクォリーメンが演奏。アイヴァン・ボーンの紹介で、ポールはジョンに引き合わされるポールははジョンの前で、エディ・コックランの『Twenty Flight Rock』を弾いて見せ、ギターの腕前と歌唱力を披露した。 |
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8月7日 |
ジャズ&ブルースのクラブだったキャヴァーン・クラブに、クォリーメンが初めて出演。ポールはボーイ・スカウトのキャンプに行っていて参加しなかった。 | |
10月18日 |
ポール、クオリーメンのメンバーとして初めてジョンといっしょにステージに立ち、リード・ギターを担当する。 | |
1958 |
2月6日 |
ポール、友人だったジョージ・ハリソンをクォリーメンに紹介。ジョージは深夜2階建てバスの2階でギターの腕前を披露し「ローン・チー」を完璧に弾いて見せた。(バンド加入は数ヶ月後) |
7月15日 |
ジョンの母親、ジュリア・レノンが警官の運転する車にはねられて亡くなる。 | |
8月31日 |
クォリーメン、パーシー・フィリップスという老人の家の一間を借りて初のデモ・レコードをカット。A面はバディ・ホリーの「That'll Be The Day」、B面はポールとジョージの共作「In Spite Of All The Danger」。 | |
1959 |
8月29日 |
クォリーメン、オープンしたてのカスバ・クラブにレギュラー出演。 |
10月18日 |
ジョニー&ザ・ムーンドッグスとバンドの名前を変えて2年前に落選したキャロル・リービス主催のオーディションに再挑戦。決勝まで進むが、惜しくも落選。 | |
10月31日 |
この頃からジョンとポールは一緒にギターを練習するようになった。この年からジョンとポールは一緒に曲を書くようになった。最初はすべてキーはAだった。 | |
1960 |
1月31日 |
ジョンのアート・スクールの友人であるスチュアート・サトクリフがジョン・ムーア展に出品した絵画が売れる。スチュアートはそのお金でへフナーのベース・ギターを購入し、ジョンのバンドに加入。 |
4月23日 |
ジョンとポールはバークシャーのキャバースハムへヒッチハイクで出かけた。 ポールの従姉の夫マイクが経営するザ・フォックス・アンド・ハウンズというパブで昼間働き、土曜の夜ザ・ナーク・ツインズとしてタップ・ダンス・ルームで演奏した。 | |
5月20日 |
シルヴァー・ビートルズ名前を変えて、ジョニー・ジェントルのサポート・バンドとして、この日から一週間スコットランド・ツアーに同行。 自分達の名前を変えることにした。ポールはポール・レイモン、ジョージはカール・パーキンスにちなんでカール・ハリスン、スチュはある画家にちなんでサトクリフをドゥ・スティル de Stael と変え、さらにグループの名前をザ・シルバー・ビートルズと変えた。 | |
8月12日 |
ピート・ベストがグループのオーディションを受けてドラマーとして加入。 | |
8月17日 |
「ビートルズ」とバンド名を変え、プロモーターであるアラン・ウィリアムズの手引きにより3ヶ月間に及ぶ初めてのハンブルグ巡業に出る。(ポールは学校を中退、ジョージは会社を辞める)インドラのクラブに出演。48日間200時間の演奏をするハードワークだった。バンビキーノという映画館の2階に2-3ヶ月寝泊りし、ユニオンジャックを掛けて寝ていた。 | |
10月15日 |
ロリー・ストーム&ハリケーンズのドラマーとして同時期にハンブルグで演奏していたリチャード・スターキーが、ビートルズと出会う。ハリケーンズのベーシスト、ルー・ウォルターズが「サマータイム」をレコーディングした際にセッションで共に演奏する。 | |
12月27日 |
ビートルズ、リターランド・タウン・ホールで帰国コンサート。 | |
1961 |
2月9日 |
ビートルズとしてキャヴァーンに初出演。 |
4月1日 |
この日から3ヶ月に及ぶ2回目のハンブルグ巡業に出発。 (トップテン・クラブでの演奏) この巡業をもってスチュアート・サトクリフがグループを脱退。婚約者のアストリット・キルヒヘルと一緒にハンブルグに残りエドゥアルド・パオロッツィの下で絵画を学ぶ決心をする。 |
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6月22日 |
オーケストラのリーダー、ベルト・ケンプフェルトのプロデュースでトニー・シェリダンの「マイ・ボニー」のセッションに参加。ビートルズとして演奏し、このシングルは地元で8月に発売。「マイ・ボニー」「聖者の行進」「ホワイ(キャンチュー・ラブ・ミー・アゲイン)」「ノーバディズ・チャイルド」の4曲と、自分たちのジョンがヴォーカルの曲「エイント・シー・スイート」ジョンとジョージの共作「クライ・フォーア・シャドウ」を録音した。 | |
My bonnie(トニー・シェリダンのバックとして)(1/2) | ||
Cry for a shadow(1/2) | ||
6月23日 |
「マイ・ボニー」セッション。 | |
My bonnie(トニー・シェリダンのバックとして)(2/2) | ||
Cry for a shadow(2/2) | ||
Ain't she sweet | ||
9月30日 |
トニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ(ビートルズのこと)の「マイ・ボニー」のEPがドイツのポリドールから発売。 A面:「マイ・ボミー」「ホワイ」、B面:「クライ・フォー・ア・シャドウ」「ザ・セインツ」 |
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10月19日 |
リバプールのリザランド・タウン・ホールで、ビートルズとジェリー&ペースメイカーズが「ビートメイカーズ」の名で一夜だけいっしょにステージに立つ。 | |
11月9日 |
ブライアン・エプスタイン、キャヴァーン・クラブでビートルズのステージを見る。 | |
12月3日 |
リバプールのホワイト・チャペルにあるネムズ・レコード店の2階のオフィスで、ブライアン・エプスタインと契約を結ぶ。 |